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(『空気人形』劇中詩)吉野弘『生命は』について(ア)

http://www.pia.co.jp/cinema/interview/090924_kuuki-ningyo/kuuki-ningyo_in.html



まあ、あんな映画を見た一日は興奮して何も手につかなくなるわけで。勿論興奮して心臓がばくばく言って眠れなくなるわけで。というのは卒論が今日もあまり進まなかったことと、今日の夜のスタジオがぼろっかすになりそうなことの言い訳でしかないわけで。の前に二郎で死ぬかもしれないわけで。



で、そんな感じでベッドの上で悶々と悶々と考え続けてたら朝日が薄らと。もうこのまま今日も寝ないでいいかな…昨日も全然寝れてないのだけど…散歩でもしてこようかな…
上のアドレスにぺ・ドゥナさんの『空気人形』への思いが書いてあります。『リンダ・リンダ・リンダ』の時は全く感じなかったけど今では彼女の魅力にどっぷりです。(彼女が撮った)写真集、買ってしまおうか。30歳ってのに少し驚き。

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『生命は/吉野弘』

生命は
自分自身で完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする

生命はすべて
そのなかに欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思えることさも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光りをまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻(あぶ)だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない





「誰もが誰かの代用品」であることが徹底して貫かれる作品において、吉野弘の詩から引用されたモノローグが心に突き刺さります。特に最後の「あなたもあるとき私のための風だったかもしれない」と、ぺ・ドゥナが朗読したところが非常に素晴らしかったわけです。詩(≒言葉)とかって、このように何かと関連付けされると、それ自身の自由な意味は失うけど、新たな自由な意味が生まれてしまう、なんとも不可思議な存在な気がします。曲における歌詞も一緒。


しかしインターネットで色んな人の解釈を見るのは面白い。もちろん自分の中でのしばらくの余韻、興奮がおさまってからでないといけないのですが。ARATAに自殺願望があったとか、そんな解釈をする人もいるのがすごいなと思う。そして(何の伏線もないのに)それすら違和感があまりなく赦されてしまいそうな、そんな多元的な要素を持つ作品である事にあらためて溜息しか出ない。もう作品を見てから何度目かわからない溜息。はあ。
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只今の一曲:Light Dance/Akira Kosemura
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zita

Author:zita
東京在住。音楽、読書、映画、ドラム、お絵かき、廃墟が好き。趣味は広く広くを目指して。好きなものは深く深くを目指して。

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